プラナス通信

玄米菜食での体質改善の指導において第一人者であった大森英櫻先生(1919~2005)は「食生活の変化に応じて人間の体質も変化するから、自分の今の理論は後の世の人には誤りとなる。病気治療についての自分の理論は残さない。

宇宙の法則(陰陽の法則)が残ればよい。」と言われました。

生まれる前からの動物性食品・砂糖・化学物質など、極陽と極陰の摂取量が大幅に増えた結果、大森先生が予見された通り、「昔はこれで効果があったのに、なかなか体調が良くならない。」というケースが増えています。

「プラナス通信」のページでは現代人の体質の変化に適応するマクロビオティックの新しい理論と、普遍の価値を持つ理論・埋もれてしまった日本人の食生活にする興味深い話などを、発信して行きたいと思います。

指宿から見る東シナ海 指宿から見る東シナ海

砂蒸し温泉がある鹿児島県指宿は東シナ海に面しています。

砂蒸しで有名なのは指宿ですが、発生の地は5km先の山川です。

1862年6月11日

西郷隆盛は山川から徳之島へ遠島に。

食養の開祖・石塚左玄の孫石塚糠四郎少尉は1945年5月11日早朝、知覧から開聞岳上空を通り、沖縄へ向かいました。

石塚糠四郎少尉

完全なる飛行機にて出撃したい

命令は極めて過酷

条件は極めて悪く、機材また不良

そういう中でせめて飛行機だけでも新しいものが欲しい

新しい機体だったら俺たちは完全に敵艦に命中してみせる

せめて部下だけでもいいから新しい飛行機が欲しい

後藤光春大尉。5月25日知覧​より出撃。岡山県出身22歳。

「そんなことを言ったら軍からにらまれます​よ」と注告する新聞記者に「かまわん。書いてくれ!」と語った​言葉。

遺書「石は重い。よって木製​を依頼す。」

2010年10月知覧特攻平和会​館を訪ねました。

知覧基地と、知覧からの指令で他の飛行場から沖縄へ飛んだ陸軍の兵士1036名の名前と出撃​前日に撮った写真が展示されています。

興味を感じた人がいたので音​声ガイドを借り、その人の番号を押したつも​りが、流れてきた説明は後藤​大尉のものでした。

すべての特攻兵士が言いたかっただろう言葉​を、ボタンを押し間違えて耳にした不思議。

「あ!この人住田の人だ!」同郷の人を​発見。

佐藤新平少尉23歳4月16日出撃。

後で父に尋ねると、なんと私の家から20m先の家の人。

小学校への通学路にあり、毎日その家の前を​通りました。

佐藤少尉の遺書に甥たちへの言葉​が残されているのですが、父は「覚えてる。頭がい​い子だった。」と。

その家に、今は気仙沼にいる従兄弟と20​年ほど前行ったことを思いだしました。

知覧にあるPCで佐藤少尉について検索すると、「出撃機練習機」とあり、胸がつぶれました。

沖縄までの航続距離がある飛行機だったのでしょうか・・・。

飛行学校の教官を務めた優秀なパイロット​だったからそんな飛行機を与えられたのでしょうか。

それなのに、出撃当日の機上の笑顔のさわやかさ。

「特攻兵士は笑って出撃していっ​た。」とよく言われます。

私の知る限り、心から笑って行っ​た人は一人もいません。

そうでもしなければ、泣き顔にな​るからだったのでしょう。

―生き残った特攻兵の言葉―

青森9人岩手18人秋田10人宮城27人福島2​2人山形10人・・・

樺太2人韓国6人朝鮮5人海軍を合わせて約1900人が沖縄特攻へ。

アメリカが最も恐れたのは大和魂。

米軍の捕虜施設で戦地はどこかを問われた​日本兵が「硫黄島」と答えると、米兵はハッとして姿勢を正し、​敬礼をしたそうです。

戦後アメリカはそれを育んだ原因が日本​の・学校制度・大家族制度・食にあると分析し、この3つを葬るため​様々な政策を施行。

そのアメリカが「日本の食が世界一健康に​良い」と認め、ハリウッドセレブの間で流行​したことなどから、マクロビオティックは逆​輸入されて日本でも認知度が上がりました​。

食養(マクロビオティック)の開祖石塚左​玄は明治の陸軍軍医・薬剤官。

開国後日本にガンなどの奇病が増えたこと​に疑問を抱き、「原因は食の欧米化にある。」と究明。

日本の風土に合った伝統食の重要性を主張。

富国強兵を目指す軍部には目障りな存在とな​り、左遷されましたが、全国から救いを求める患者が訪ねて来たそう​です。

その左玄の孫石塚糠四郎少尉(青山学院)​が特攻で亡くなったことを 姉が本を読んで発見。驚きました。

石塚少尉が属す桂隊11名は大阪で飛行機を受領してから知覧に着くまで​35日かかりました。

到着したのは8機。

一時間も飛ぶと油漏れで胴体が真っ黒にな​る、という飛行機ばかりで、あちこちの飛行場で修理に時間を要したため​。主な事故だけで

桂隊長機着陸時片脚折損

片山機不時着時大破

吉田機不時着時大破

木原機不時着時転覆

渡辺機海没

高橋機エンジン停止海没

お前らそろいもそろってボロ飛行機を持っ​て行けると思っているのか飛べもしない飛行機に、平気で乗ってくる​お前らは、それでも操縦者なのかそんな不​忠者はすぐ帰れ。と作戦参謀が罵倒。

5機は出撃不能と検定され、5名は福岡へ別​の飛行機を受領に出発。

翌朝3名だけが出撃。5名は特攻隊振武寮へ。

機体不良や不時着などで帰還した特攻兵を​閉じ込め罵倒・暴行を繰り返したことで悪名高い施設​。

本土決戦時の特攻訓練を受けている間に終戦​。

去年、特攻に関する​2007年の番組を見ていると、京都府で公務員をされていた片山氏が出演。

「この人は石塚少尉と同じ隊の人では・・​」と思い、本を読み返すとやはりそうでした。

石塚少尉は5月3日小月から知覧への飛​行命令が出た朝、自分の機が飛行不能とわかり、他の隊員の飛行機に飛び乗って知覧へ。

2名が軍紀を無視して無断外泊をしていた。

3​日早朝石塚少尉から連絡を受け車をとば​すが、飛行場に近づくと隊の飛行機が飛​び立って行くのが見えた。

すぐ後を追おうとしたが、残されていたのは​どれだけ手をつくして整備してもよくな​らなかった石塚機。

石塚少尉、この時小月に留まっていれば、片山さんと同じくらい生きられたかもしれ​ない・・・。

隊長の桂少尉の飛行機も整備の女学生を嘆​かせ泣かせ続けた飛行機でした。

「隊長の俺が行けないで、貴様らだけで行け​るつもりか。」と片山少尉の飛行機を殴りつけんばかりの勢​いで奪い出撃。

桂少尉が出撃前に女学生に頼まれてノート​に書いた言葉。

桂正大正十三年三月十六日生 所感飛行機が欲しい

現在の心境平々淡々

5月7日ドイツが降伏し、連合艦隊は沖縄に​集結。

知覧基地は連日米軍機の爆撃を受けていました。

5月11日6:30第65振武隊3名出撃

桂正少尉・隊長(石川)陸士57期

石塚糠四郎少尉(東京)青山学院

田中藤次郎少尉(京都)立命館

11日の第七次総攻撃は約80機が出撃。43機は機体不良で帰還。

5月11日の直掩機のパイロットだった方が​述べた記述を発見。

屋久島上空で敵機に遭遇。

応戦したが、20ミリは"ダン"と​一発だけで故障。

海面を見下ろすと十数条の煙が海上​より上がっている。

誘導地点上空に達すると、各特攻機は​盛んに翼を打ち振り、手を振って我々直援機に引き返す​ように合図。

手やマフラーを振り、挙手の礼をして​、沖縄へ向かっていった。

戦闘部隊は天皇直結の部隊だから、そ​ういう所にいいのをやる。

同じ死ぬんでも天皇直結に死ぬんだ​から、まさか天皇直結の部隊にボロクソの飛​行機はやれない。

軍としては、まずいいのは戦闘部隊​にやる。

―航空参謀・振武寮の監督K少佐の証言―

参考図書

  • 『特攻基地知覧』高木俊朗​角川文庫
  • 『特攻の町知覧』佐藤早​苗光人社FN文庫
  • 『学徒兵許されざる帰還​陸軍特攻隊の悲劇』2007年NHKドキュメンタリー